昭和44年07月10日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」
これは商売をするのに、対して御理解を下さったものでございましょう。けれどもこれは商売をするものだけではない、私共信心させて頂く全てのものが、こういう心掛けになればいいと思うのです。信心をさえて頂くものはこういう心掛けになると。まぁ難しく真の道と言った様な事を言われますけれども、私はそういう例えば御教えを頂いて、それをほんにそうだと気付かせてもらい、それを行じさせてもらうと言う事がですね、真の道をもう行じておる事と。
ですから信心させて頂こう、お道の信心をさせて頂こうという時には既に、真の道の入り口に立っておるようなものです。そこから教えを受けます。そしてその教えがなるほどと合点がいったらです、それを生活の上に直ぐに現わして行こうということ。現わしていく事。それが真の道を行じていく。真の道を歩いていくことなんです。ですからこういう風に頂きますとね、信心は本当にみやすいなぁ、しかも有り難いだろうなぁと、しかも段々楽しゅうなって来るだろうなぁという気が致しますですよね。
信心はしよるおかげを頂く為に。けれどもその真の道を行じよう歩こうとしない。これじゃひとつも信心の楽しみもですね、何も生まれて来ないと思うんですよ。ですから信心をいわば真の道をいく人は、なにせん真の道を行く人は、段々段々ですね、有り難くなっていかなきゃならん、楽しくなっていかなきゃならんのです。そしてその真の道からいわば回れ右をして、今まで通って来た道にまた逆戻りをするような事は、もう馬鹿らしゅうならにゃいけんです。
いわゆる教え、例えば道の行者になれと言った様な事が言われます。大変厳しく聞こえますけれどね、私は道の行者に成ると言うことはね、人間の生き方を正しく尚こう教えて下さってあるのでございますから。しかもみやすう教えておって下さってあるのでございますからね、それを私は素直に素直に行じて行くことだと思うんですよ。それが私は真の道を行くのだとこう思います。ですからいわゆる真の信心に段々段々なって行く訳です。そういう例えば真の道をです。
段々歩かせて頂くという事を楽しみに、楽しみに信心をさせて頂いておる、どういう事になるかというと、必ず真の道をいく人は肉眼を置いて心眼を開けよと仰が、こりゃ自ずと開けて来ると思うんですね。ですからそこんところをです本気でひとつ分からなければいけない。例えばこの商売訓ですよねこれは、に対して下さっておる、人が十銭かけるものなら八銭にせよと。二銭は目先のようであっても安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃと言う風に仰っておられる事は。
もうこりゃ教祖様はですね、肉眼の世界から神願の世界に入っておられる。はっきり分かっておられる訳なんですね。それを私共は肉眼ばかり見ておるから、それはそげんすればもう損するごとある。もう倒れるごたるあると思うのですね。それを教えを本気で行じていく内にです、私は肉眼を置いて神願を開かせて頂くという、まぁ大変なおかげがですね、頂けて来る様になる。だから沢山の信心いわゆる信奉者があるのですけれどもですね、いかに真の道を行じていないかという事が分ります。
何時まで経っても信心のある者もない者も大差ない。いわゆる肉眼をおいて神願を開いていないから、信心のないものが腹を立てておる時にやっぱり腹を立てておる。信心のない者がこのくらいの事はというて、平気にやっておる事をやっぱり平気に犯しておる。これでは心の目が開ける事はないですよね。私はその尊いのはその辺だと思うのです。そして真の道というのはこんなにも、みやすく入っていけるんだと言う事です。私はその真の道というのはあまりに、その何んか特別な何か難しい事の様に思うて。
それを入ろうとも行じようともしない。それで一生懸命お参りをしておかげを頂いて、まぁ昨日の御理解じゃないけれども拝む事でおかげを頂いておる。御用をする事でおかげを頂いておる。それは決して神様が喜んで下さる事ではないてね。いやそれこそあれが一生懸命参あげんして参るから、あれがあぁして一生懸命するごんばするからね、下さっておるおかげであって本当のおかげではないと。私共が真の道をいくという事を行じていくということね。
そこにです真の道、いわゆる真の信心をさせて頂くところにです、真のおかげ真のおかげと。真のおかげというものは下さい下さいというて頂くもんではない。今日はだからその辺をです、私しゃみやすいものにしなければ駄目だと思うんです。教祖の教えて下さる事はこんなにもみやすく、しかも嬉しく楽しく行じていかれるという風に、お互い思い込まなければいけんです。教祖の言われる通りにすれば損をする。教祖の言われるとるにすればきつい。そういう風に言うと信心が非常にきつい難しいものになります。
今日のはもう商売にとってです、やはり商売人とすればもうかるという事ね。利益をあげると言うことがやはり眼目ですから、人が二銭で売るものは三銭で売る。十銭で売る物は11銭も12銭も売ってでも、それがどんどんどんどん売れる事の方がおかげのように錯覚する。目先は例えば二銭も三銭もようけ儲かったようにありましても、これでは真の道に添わないから、必ず又おかげを落としてしまいます。これはだから商売訓ですけれども、商売させて頂くものだけではありません。
そういう生き方ね、例えば御神誡なら御神誡を頂きましても、真の道を行く人はそういう生き方ね、そしてそれをみやすうみやすう教えておられる。金光様の信心をする者は火の行せろ水の行をせろと言った様なところはひとっつもない。さぁ水の中に飛びいけ、さあ火の中に飛び込めと言った様ならですね、これは誰々でもは出来ません。けれども見やすうみやすくそれも合点がいったならです、教えて下さる事が成程そうだなぁと、合点がいったなら、それを行じていくことが真の道を歩く事だと。
そういうみやすい事がです、沢山の信奉者の中に本当に何人出来ておるかと、言う程に出来ていないというところを思いますとです、人間の我愁というものがね、いかに強いものかということを感じます。自分がもう良くない事でも思いこんでおる事を外すということが難しい。難しいというのはその事が難しい。そこで今日は私はそこんところをです、素直に素直にですね、ひとつね10銭で売っておるものは八銭で売らせて頂けれる、素直さをですね、私は身に付けていかなければならない。
それが真の道を行く人で、真の道を行じて人の姿なのですから。とどうでもやっぱりそこをですねあのう行じさせて頂く。そこからその事を行じる事の楽しみ喜び、よそよりも自分のところは安く売らせて頂いておる。お客さんが喜ばれるこ事を本意に、商売をしておるというです一つの何ていうかね、まぁ誇りといったようなものも出来て来るのじゃないかと思う。これはもう商売させて頂いておるという意味合いじゃないんすよね。信心させて頂いた者の全てがそういう心掛けにならせて頂くという事がですね。
それを段々段々真の道を行じていくという事の楽しみがです、真の道を行く人は肉眼をおいて心眼を開けと仰るような、心の目がこう開けてくるという事、もうそこにはですね次元の違った世界が開けてくるのですよ。いうなら子供と大人程のものの見方考え方が違って来る世界があるのですよ。子供がおもちゃを大事にしておる。喜んでおる。そういう例えば信心がです、段々真の道を行っておる内にです、いわゆる信心がそのようにしてお育てを頂いておる内です、大人になって参りますとですね、いわゆる子供が楽しんでおる事や喜んでおる事やらは、そんなに楽しいものではなくてです、むしろ気の毒なくらいになって来る。例えば信心のない人がですよ、もう金さえあれば金さえあればというておるのがね。言う様な例えば人を見てですね、金も勿論大事だけれども、金よりももっと大事なものを私共が求めて行く事になるのです。
例えば病気なら病気と言う事においてでもそうです。それを医学的に言えば何々と言う病気かも知れませんけれども、段々肉眼を置いて心眼を開かせて頂いておると、それは病気というものではない。病気じゃないね神様のご都合だ。肺病なら肺病という名の神様のご都合なのだ。胃癌なら胃癌という名の神様のご都合なのだ。もうそこに胃癌とか肺病だとかというその恐さというものがなくなってしまう。そこからですねその神様のご都合を本気で分かろうとする姿勢にならせてもらい。
そこが改まれるところにいつのまにかやはり、その病気と言っておった神様のご都合が変わって来る。神様のご都合も変わって来る。変わって来るから病気が癒えていくと言う様にですね、一つの人間関係のもつれた問題難儀な問題ね、本当に人間関係ほど難しいものはないと言われておってもですね、人が十銭で売る物は八銭で売る心持ちになるということは、信心させて頂いておる者はね、そこを例えば馬鹿と阿呆の心で受けていくとか、その見方というものがです全然変わって来るのです。
家の息子が言う事を聞いてくれると良いけれどもと、言うておったのは信心のない時であった。先日森部高山さんが参ってみえて、ちょっと息子さんが一人息子で甘やかしておるもんですから、もう子供も二人もあるのに、そのうお酒の方が好きでですね、その帰ってこなかったり、そのお商売に身を入れなかったり、まぁするという訳なんです。それで本当にこの人がいっちょ変わって、おかげを頂いてくれるかと思いよったのが、最近を思われておるここでお届される事はです。
先生私が改まらなければ秀樹が可哀想ですと言われました。そげん変わって来るのです物の見方というものが。それは神様のご都合なのですから。先生私が改まらせてもらわなければ秀樹が可哀想ですとこう言うのです。高山さんそうですよと。全然次元が違うでしょうが。どうぞ息子がね立派に親の後を継いでくれます様に、お酒を少し減らしますように、きちきちといわば仕事を家の中心になってしてくれますように、そういう願いがです、もう全然願いの焦点が変わっておる。
先生私が改まらなければ秀樹が可哀そうだとね。もうそこに子供が言う事を聞かんとかなんとかという問題じゃない事になる。そういう私は生き方というものがです、この真の道を行じておらんと分かって来ない。これはもう肉眼をおいて心眼をもって見た姿だと私はこう思うね。昨日ここの13日会にこれから、信奉者の皆さん、皆さん遠隔地はそんな訳にいけませんから、まぁ周辺の信奉者の方達に13日会の意義というものを徹底させて頂いて、その日はもう一日ね13日というのは神様の願いが。
叶う、叶うて行く日。成就する日。と教えて下さるのですから、せめてこの十三目一日は合楽の信奉者の全部が、こぞって出来るなら家族を上げて、お弁当持ちで朝から神様のお喜びの為というのか、神様の願いが成就する事の為に奉仕をし、そして午後から信心の親先生を中心にして、信心の研修をさせて頂いてこういうおかげを頂いておるから、皆さんもどうぞ振るって出席をなさるようにという、案内の葉書が昨日出来てきた。それで私がそれをお届けさせて貰って、御祈念させてもらってから思うのです。
皆さんがご承知のように、何時の頃から十三日会というのが出来たのか記憶にないのです、尋ねられたけれども分からなかったのですけれども、色々あの久保山先生が書き残されておるようなものを調べておるうちに、そのういろんなものが出て来て、それをこう逆算すると年月日が出て来る訳です。月日は出て来ませんけれども。それがちょうど昭和30年から始められておるのすね。
そしてあのご本部参拝させて頂いておったり、小倉に月参りをさせて頂いておったあの日を、私共ご本部参拝をさせて頂いておる積りで、いわば積りでせめて信心共励でもさせて頂こうじゃないですか、その積りでお供えをさせて頂こうじゃないですかというのが、十三日会のそもそもの始まり発端でしたがね。それまで合楽には全然そのう預金と言った様なものは、また私はあってはならんとすら思うておった。
教会というところに。毎月毎月お月参りをする時にその全てが御本部へのお供えでありましたから、家庭生活の上に使うのは最小限度ぎりぎりにそれこそ、お下がりだけで生活させてもらうような生き方の中からです、それがなされておったのです。そしてそういう事にならせて頂いたらですね。それを十三日会ね、只今では御礼十三日会こう皆さん、御礼十三日会としてそれを奉納される。それが貯まり貯まってここの合楽のご造営の元を作ったのですよ。
はぁほんなこと神様の願いがあの、あのようにして成就して生きておったと言う事が分かる。それで私はこの十三日会に限ってだけは、決して皆さんに申しませんでした。まぁ集まるのはいつも30名、34、5名。奉賛される方を合わせて五十名くらい。十三日会に。その五十名くらいの方達がいわば、三十年からずっと続けて来ておるのです。ですから私この十三日会に限っては、こういう有り難い会合がありよるから、あなた方もどんどん出ておいでなさらんかと言うて、私呼び掛けた事は一回もありませんでした。
これは神様が先頭に立って下さっておる会であるからと言う思いからですね、神様の願いがそれは少しづつでも、成就していく事のために神様が先頭に立って、おられるのだという考え方がございましたから、申しませんでしたけれどもね、信徒会長がその事を話出されてみんな企画の方達の話合いでしょうか知りませんけれども、そのうご信者さんの中からそういういわば働きが生まれてきた。
これは十三日会と言う日はただならぬ日であるから、合楽にご縁を頂いておる信奉者の全てがその日は一日本当に神様の奉仕の日として、または信心共励をさせて頂く喜びの日として、そのもっとこの二十人三十人のものではなくて、信奉者全部にこれを徹底させて頂こうと、言う様な働きが生まれて来た。これは私はそうしたらいいですなと言うた事ではない。昨夜その事を夜の御祈念にお届させて頂いてから、夜の御祈念をさせて頂きながらそれを思うのです。有り難い事になってきたなと。
しかもこれは毎月毎月徹底するまで続けようじゃなかという事らしいですね。私共が日々どうぞ神様というて、私共がおかげを受ける事の為に一生懸命の信心をしておるがです、せめてその中の一日だけをでもです、神様の願いが叶えられ成就される事の為に奉仕させて頂く。もうこれは当然の事なのである。信奉者としては。そういう信心の姿勢というものが合楽全体に出来てきてです、いかにその神の悲願が達成される事の為に、奉仕することがです有り難い事かと言う事を体験されて、十三日会は家族をあげてこの様な事になるのであるから。
せめて十四日、十五日は私の方の店の神様の願いが成就する事の日の為として、黙って言わずにね、例えば今まで十銭で売りよったものを、八銭で売らせて頂けれるような日が、生まれて来る様な」信者が次々出来て来るであろうが、そういう事になったらどんなに有り難い、素晴らしい事になるだろうかとこう思う。私の方は十四日だけは十五日だけはもう、家は安くして売りますよと言った様な事を、いや売らんための為に宣伝するのではなくね、神様がお喜び頂けれることのために。
神様の願いが成就する事の為に、その日だけは私の方のお客さんに喜んでもらう、サービス日としてですね、出来るような人達が次々恐らく出来て来るだろうと。もうそれをそういう風に思うたらなんか嬉しくなりましてね夕べ。そしてそういう生き方がいかに有り難いものか、神様の喜びがまたどのような風に照り還って来るかという体験。いわばここにありますように、安すうすれば数が売れるからと、神願を持ってはっきりそこを感じとっておられる教祖様が仰っておられますようにね。
売れる事が分かって来たらそれが本気で、一月中の上に行じさせて頂けれるようになったら、そこからですお道の信奉者の、これは商売させて頂く者の心がけ、これはどうぞ商売だけではないですよ。全てがその理なのですからね。商売しておらんでもいいのですよね。今日という日は家族を上げてです、もう本当に神様が喜んで下さる事のために奉仕をする、もう本当にふるにその事に、一家中の物が凝り固まらせて頂けれるようなです、雰囲気を十三日会の中からヒントを得て。
おかげを頂いておいでられるようになったら、いよいよ信奉者の全てが真の道に立つ事になり、真の道を行じて行く事になるね。そこから真の道を行じていくそこからね、真の目が開ける。いわゆる心の目が開けてくる。いわゆる有り難い勿体無い。物の見方考え方がねそれを有り難いものとして、勿体無い物として見えて来る様になる、おかげを頂いていかなければならん。ですからあまりにもお道の信奉者の皆んながです、沢山熱心な信者は沢山あるけれどもね。
少し検討の違った信心してただおかげを受けておるという生き方から、十三日会的精神がです、私共日常生活の上に現わされていくところからね、真の道を行じるところの賀びを悟らせてもらう。せめてその十三日会の中から、それを感得させてもらうというおかげを受けて、本気で真の道を行じていく、いわば道の行者としての信心を見に付けていきたい。また行かねばならんとまぁ思うのでございます。
今日は御理解79節の中からみやすうみやすうなるほど、素直にその気にさえなりさえすればです、真の道真の道というがそれを厳しいもののように言うがね、スムーズにスルスルと入って行けれる道なのである。その気になって、素直な心になって受けて行きさへすればね。真の道を私共が行じさせてもらう、そこから金光教的信心の喜びの生活と言った様なものがです、身についていく上にそれが段々備わって来る。お道全体にそういうムードが一杯になって来るね。
そこから現われて来るおかげであって私はね、昨日の朝の御理解に続けて申しますならば、神様に喜んで頂けれる信心という事に、なるのではないかという風に思うのです。真の道真の道と申しますが、今日79節から頂きますその真の道とはそのようにみやすいもの。そのみやすい道を私共の言わば我愁とも思われるような心がです、真の道を行じさせない。せっかく何年または何十年の信心をさせて頂きながら、おかげは頂いておっても真の道に出る事が出来ないでおる。
真の道を行じないで、いわゆる真の道を行じる喜びとか楽しみというものを、知らない人が沢山あるという事。そこんところを教祖はこの御理解の中から、この御理解からだけじゃありませんけれども、この御理解からもそのように頂けれると思うのですね。いうならば今まで十銭で売りよったものを八銭で売ろうという気になる事だけで、もう真の道に立った事になりそれを行じる事はもう既に、真の道を行じておる事になるのです。
どうぞ。